Atsuko Nakamura Studio
アーティスト・中村厚子の公式ウェブサイト| Artist. Atsuko Nakamura’s official website
場やもの・ことの根底に潜み、普段は気づかなかったり忘れさられているが 実は本質的・根源的で、何かそこに生命やエネルギーを感じさせる存在。 全く関係していないように見えて、実は互いに影響しあっていると感じられる存在。 私はそれらに違和感を感じ、心惹かれる。 その存在や関係性を私なりの視点を通して、 身体的、感覚的、直感的に感じられるようにしたい。 現地での体験を元に、空想や連想を膨らませ、 ドローイングや模型製作を通して整理、要約、抽象化させ、作品を構想する。 流木や水、塩などといった現地の自然素材や現象を用い、その特性や偶然性を生かし、 土地の文脈、建物、周辺環境も作品の一部として取り込みながら造形し、 空間を異化・変容させるサイトスペシフィック・インスタレーションにする。
1 September 2021
私はこれまで特に「人と自然の関係」に着目してきた。 普段は意識されにくい相互の繋がりや 自然界の野生的な荒々しさ、生命力やエネルギーを 私なりに要約・抽象化し、 その場の自然の素材や現象を用いて人工的空間に介入させたり、 周辺環境を取り込みその場一体を作品化するインスタレーションを制作してきた。 ■制作について 私の制作は日常生活における発見や気づきから発想することもあるが、 多くは特定の場やもの・ことの体験やリサーチから始める。 そこで感じた違和感などを元にドローイングや連想を通して自分なりに掘り下げ、 現地の人々との交流を通し知り得た文化や歴史の要素も交えながら 表現のテーマや形態を決めていく。 私はよく流木、枝、塩、水、風などの現地の自然の現象や素材を用い、 その特性や偶然性を生かしながら制作する。 例えば枝を用いる際、私は1本ずつ手に取り、その曲がり具合を 最大限に活かすように切ったり、くっつけたりして適当な箇所に固定していく。 まるで枝がこっちに行きたい、あっちに行きたいと言うようであり、 対話や格闘、共同作業、あるいは自分と枝が一体化したような感覚がある。 結果を全てコントロールしようとするのではなく、 あえて他の影響を及ぼす力に身を委ねることにより生まれる 偶然性や予想外の形を取り入れながら作品を成立させたい。 空間に対する作品の構成や配置は重要である。 作品空間の構成、大きさ、明るさなどが 身体や心理に与える影響も作品の一部であると考える。 ゆえに作品はしばしば文脈的にも形状的にも、その場や建物、周辺環境と結びつき、 アート、建築、自然の垣根を溶かすように成立する。 ■自然の何が気になるのか 私は自然の草花や木々、雪などの現象が特別好きという訳ではない。 しかしそのしぐさや状況から、 言葉こそ発しないが、 何か強い意思を持った生命体のように感じて 気になってしまう。 気づいたら人工物さえも飲み込んでしまうかのように、 その表面にびっしりと生える雑草。 フェンスで仕切られた場所でも、曲がりくねりながら それを自由に超えて成長する枝や幹。 一瞬にしてあたり一面を覆い、 全てを白一色に、丸みを帯びた形に変えてしまう雪。 何かに負けじとどうにか力を振り絞り、 光を求めてその体を歪め伸ばして生きてきた過程やその時間を連想させ、 時には私に話しかけてくるように感じることもある。 儚くて美しいというよりもむしろ、 強くて怖いくらいの生命力やそのもののエネルギーを感じ、 畏怖や共感、憧れのような感情を抱いてしまう。 ■建築からアートへ 田畑や山川に囲まれた場所で育った私にとって、地元の自然(虫や動植物から雪や雷雨などの自然条件まで)は超越的で、野生的な荒々しさ、恐ろしさ、厳しさがあり、否応なしにこちらの生活に干渉してくる存在であると同時に私にとって遊び相手であり、相談相手であり、自分の分身、兄弟のような存在であった。 しかしある時、工業団地開発により環境は様変わりし、そこにあった動植物は言葉を発したり抵抗することなく消えてしまった。強靭で偉大だった地元の自然は、人間の開発に対して無力であることを知り、喪失感を感じた。 その後、東京の大学で建築設計を学ぶ中、都市での自然環境や生活が私の地元とは大きくかけ離れたものであると感じ、驚いた。そして都市化や現代的ライフスタイルが加速するにつれ、もの・ことの本質が日常的に見えづらくなっているように感じ、違和感を覚えた。 都市では野生的自然環境の多くが失われており、植物はまるで都市の装飾物のように、道路脇のごくわずかな土地に人工的に植えられている。建物は密集、高層化し、生活に必要な水やガスなどもパイプを通して内部に運び入れられ、それらがもはやどこからどのように来たのかを想像することは難しい。 自然は一方的に利用されるべき単なる資源や装飾物のように扱われているが、 人と自然は切っても切れない関係であり、互いに影響しあいながら存在しているのではないだろうか。 もし建築が壁を立てることで外界や自然とのつながり、自然の本質的な姿を見えにくくしているとするならば、私は逆にその建物と周囲のダイナミックな自然環境とのつながりや関係性を発見し、その生命力やエネルギー、荒々しく野生的な要素も含めて私なりに解釈・要約して内部空間に入れ直すことで、身体的、感覚的、直接的に感じられるようにできないか。 そうすることで、今ここの背景にある目に見えない壮大なもの・こととの繋がりを想起し、そして今ここを以前とは違う新たな視点で捉え直すことができないだろうか。 自然と遠ざかったライフスタイルの中で、 いかに自然を直接的に体感できるか いかに自然を新たに解釈し直すことができるか その可能性を模索したい。 また、私にとって建築物は体のようであり、壁は自己の内側と外界を隔てる皮膚のようであるとも感じている。その内側に自然環境とのつながりやその野生的な姿を入れ込みたいという欲求は、もしかしたら失われた地元の原風景を自分の体に再び取り戻したいという思いもあるのかもしれない。